1903年の万国無線電信会議の予備会議に日本は出席していません。その頃日本とロシアとの間に不穏な空気が漂っていたためです。しかし1905年に日露戦争に勝利し、意気軒昂の日本は、1906年の本会議に、6人の代表団をベルリンに送りました。下の写真は、浅野応輔電気試験所所長(前列左)と日本海海戦で活躍した三六式無線電信機の生みの親の木村駿吉教授(後列左から3人目)及び在外公館の武官、官吏と通訳です。

 この第1回万国無線電信会議(ベルリン会議)で決まった主なことは次の通りです。

  1. 海岸局と船舶局との間の通信の義務付け(方式の違いによる通信の拒否の禁止)

  2. 一般公衆通信に波長300m帯(周波数1000kHz)と波長600m帯(周波数500kHz)を割り当て

  3. 海岸局の遠距離通信用または一般公衆通信以外の業務に対して波長600m未満または波長1600m以上の割り当て

  4. 新しい遭難信号SOSの採用


 この会議でSOSが決まるまでは、遭難信号としてマルコーニ社が決めた CQD が使われていました。では1906年以降直ぐSOSが使われたかというと必ずしもそうではありません。各国とも批准に時間を要したからです。日本がこの条約を批准したのは1908年(明治41年)です。
 1909年頃から、SOSの使われた例がいくつか報告されていますが、それは主として北米周辺の海域で、マルコーニ社製以外の電信機を搭載した船が遭難した際です。

 1912年に遭難したタイタニック号が初めてSOSを使ったと言われているのは、正確に言えば、マルコーニ式電信機を積んだ船の中で、SOSを初めて使ったのはタイタニック号であった、ということになります。
 今から90年以上前の1912年4月14日23時40分、タイタニック号は大西洋上で氷山と衝突して約2時間半後に沈みました。その時、船体が海面から消える瞬間まで、フィリップス電信士はモールス符号による遭難信号を打ち続けたのです。

 そのタイタニック号から発信された電文を、当時の資料や技術を参考にして、出来るだけ忠実に再現してみました。当時の送信機はインタラプタ(断続器)で高圧を作り火花放電させていたので、数十ヘルツのその断続音でモールス符号が聞こえるはずです。

 指示のボタンをクリックすると、フィリップス電信士が最後の瞬間まで打ちつづけたモールス信号を聞くことができます。


【参考資料:タイタニック号の遭難モールス信号を再現】
 下の 「ボタン」を押すとタイタニック号の発信したモールス遭難信号を聞く事ができます。
 また 「ボタン」を押すとモールス信号音が停止します。

タイタニック号の発信した CQD モールス遭難信号の復元

タイタニック号の発信したSOSモールス遭難信号の復元

 

 衝突してから約30分後の4月15日0時15分に CQD で始まる次の電文を打ち始めました。
CQD CQD CQD DE MGY 41.46N 50.14W SINKING WANTS IMMEDIATE ASSISTANCE
(訳文:遭難した。こちらタイタニック。北緯41.46西経50.14 沈みつつある。至急救助を頼む。)
 それから30分経ったとき、船長は国際会議で決まった新しい遭難信号を使うよう命じました。そこで打たれたのがSOSで始まる次の電文です。
SOS SOS SOS DE MGY CQD REQUIRE ASSISTANCE POSITION 41.46N 50.14W STRUCK ICEBERG TITANIC
(訳文:遭難した。こちらタイタニック。救助を頼む。位置は北緯41.46西経50.14 氷山に衝突した。タイタニック)


モールス信号は電鍵を打って送信します。

タイタニック号